むらからくにへ
[2010年3月18日]
ID:1129
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3世紀の中国(ちゅうごく)で書かれた歴史(れきし)の本、『魏志』倭人伝(『ぎし』わじんでん)には、「倭(日本)では、いちばん強(つよ)い邪馬台国(やまたいこく)というくにが、30ほどのくにをしたがえている。邪馬台国は、もとは男の王がおさめていたが、くにぐにの間に争(あらそ)いがたえなかったため、くにぐにが話しあい、ひみこという女を王にすると、争いがやんで平和になった」とあります。
米つくりがはじまり、むらをつくってくらすようになると、土地や水をめぐってむらどうしの争いがふえました。力の強いむらは、ほかのむらを支配して、だんだんと大きくなり、各地にくにというまとまりが生まれ、くにどうしの争いもおこりました。
魏志倭人伝には、さらに「ひみこは、使いの者を中国の皇帝(こうてい)につかわし、皇帝から倭王の称号(しょうごう)と銅(どう)の鏡(かがみ)などをおくられた。」とあります。邪馬台国は早くから米作りがすすんでいた北九州か大和(やまと=奈良県)にあったと考えられています。
滋賀県(しがけん)野洲(やす)市の大岩山(おおいわやま)からは、とかした青銅(せいどう)を鋳型(いがた)に入れてつくられた、「銅たく」が24こも見つかりました。銅たくは、豊作(ほうさく)をいのるまつりの道具といわれていますが、ほかの遺跡からは、こうした銅たくや銅剣などのほか、熱(ねっ)してきたえてつくった鉄オノなども見つかっています。
また、むらをまもるため、むらのまわりに「かんごう」とよばれるほりがほられることがありますが、東近江市能登川石田(のとがわいしだ)遺跡のかんごうではおまつりがおこなわれたようで、多く土器や木器片(もっきへん)などが見つかりました。
3世紀にはじまる古墳時代(こふんじだい)は、死んだ人を葬(ほうむ)るため、土をもりあげた大きなお墓(はか)、古墳がつくられた時代(じだい)です。石や木で棺(ひつぎ)をつくり、棺はさらに石室(せきしつ)やねん土でおおったりします。古墳を上空からみて、円形と四角形をあわせた形の古墳を前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とよび、四角形をふたつあわせたものは前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、円形のものを円墳、四角形のものを方墳とよびます。
4世紀から5世紀ごろ、大和(奈良県)や河内(大阪府)地方にはいきおいの強いくにができ、ほかのくにをしたがえながら日本の国を統一しはじめました。こうして、大王(おおきみ)を中心とし、各地の王を政府(せいふ)の役人とする政治のしくみが、しだいにととのえられていきました。この政府を大和朝廷または大和王権(やまとおうけん)といいます。
東近江市(ひがしおうみし)でいちばん古い古墳は、長勝寺町(ちょうしょうじちょう)にある神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳で、3世紀後半につくられた前方後方墳です。また、東近江市の西南にある雪野山(ゆきのやま)の頂上(ちょうじょう)には、4世紀前半の雪野山古墳があり、石室の中から銅の鏡や石でつくった飾(かざ)りものや武器(ぶき)などが多く発見(はっけん)されました。
木村町(きむらちょう)には、5世紀につくられた2つの古墳がもとの形に復元(ふくげん)されています。ひとつは天乞山(あまごいやま)古墳で、滋賀県(しがけん)でいちばん大きい方墳で、はにわも見つかっています。もうひとつは円墳の久保田山(くぼたやま)古墳です。